2009年08月23日

博士の能力

末は博士か大臣か。


今の世の中、博士号を持つ人は多い。

そして、それが仇となる可能性がある。

望むような職に就けないことが多いからだ。

そこであきらめてしまった。



自分は「博士」になりたかった。

就職の際、悩みつつも「自分には無理」と

そこで線を引いてしまった。バカの壁だ。

「とてもそこまでの能力はない」と。

その考えが今、少し悔やまれる。




博士になるには資格としての博士号をとればよいのだが、

「博士」として実際に活躍するためには

大きく3つの能力が必要である、

と自分がいた研究室の「博士」は言う。

(ここでは、おもに工学博士を前提として考えている)

資格としてではなく「博士」とはどんな人か、を考えると、

その三つを持つ人のことで、科学に貢献する人

それになりたかった。


その先輩の言っていた、三つとは何か、書こうと思う。


一つは、

「研究課題を見つけ出し、(自身で)設定する能力」

があること。(自然科学の分野において)

現在、何処までがわかっていて、

今後、どのようなことがわかればよいのか、

といった課題を的確に抽出する能力である。

これは膨大な数のジャーナル(論文誌)や情報のなかから、

的確に抽出しなければならない。

どんなに興味深い現象の研究でも、

すでに研究がなされているものは発表する価値が大幅に下がる。

最悪の場合、論文投稿すらできない。

すなわち、なんら現代科学に貢献しないことになる。

ジャーナルは毎週のように更新される。

それら全てを短時間で把握するのは、たいていの場合、困難だ。


二つ、

「実験を遂行し、出てきた結果を考え抜き、自分で筋道をたて結論する能力」

つまり「自分で道を切り開く能力」である。

自然科学の研究は当然、

目の前には何もない未開拓の領域である。

我々は日進月歩、この道なき道を進んでいかなければならない。

正しい足跡を踏み、道を創りださなくてはならない。

ある現象を発見したり、その現象について、

制御するために、理解する必要がある。

全てを矛盾なく説明するのはたいてい、困難だ。



自分は物質科学の研究室に所属していたが、

現在の物質科学で研究されている多数の物質は、

ほとんど無限に考えられる組み合わせの中で

それぞれの道が切り開かれ、次世代の物質として利用されることになる。


物質科学だけでなくあらゆる自然科学が

「博士」らの手により少しずつ少しずつ開拓されてきた。

「博士」以外にはできない仕事と考える。



三つ、

「論文を書き、プレゼン資料を作成し、それらを発表する能力」

科学技術がこの世に存在するのは、

それが概念を持ち、まとめられ、世に発表されるからである。

それにより人々は知識を得ることができる。

自分の研究成果を正確に過不足無く伝えることで、

次の研究にも繋がり、また、知名度もあがり
(研究費を取ったりして生活するためでも重要)、

それにより科学に貢献したといえるのではないだろうか。

どんなに画期的な結果がでても、それが人の、

皆の目に留まらなければ無意味になってしまう。

そして誰も知らない概念を分かりやすく、

そして過不足なく伝えることはたいてい、困難だ。



これら3つの能力をほとんど完全に習得してこそ、

「博士」たり得るのである。

それは長く険しい道である。

一般に博士課程(または博士課程後期)は3年であるが、

3年間でそれを習得するのはとても難しい。

教授が「この人ならば大丈夫」という人しか博士課程には進めない。

(基本的には。)

また、そういう、認められた人でも3年では成果がでず、

認められずに途中で断念してしまうこともあるだろう。

修士の場合はこれらの3つの能力のうちどれかひとつでも体験、

習得すれば「修士」として認められる。



昔は「博士」は博識を持っている人であるというイメージであったが
(もちろん博識であるが)、

それ以上に高い能力を持たねば「博士」として認められない。

それが資格としての博士号でもある。

博士号を持つ人々は「世界のどんなこと」にでも、

ひとたび疑問をもてば自分自身で解決できる、

まさに普通の人とは全く別格であると思う。

もちろん、自然科学の「博士」にとどまらず、

社会科学、人文科学の「博士」でも別格の能力を持つ

(と思うが…そこらへんは不明だ)。

posted by フェイサン at 23:38| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月06日

名言集 その○



人は

まっすぐにものを見る眼を持って生まれ

後天的に獲得した斜めに見る眼をもてはやし

いつかまた手放していく

ならば早くに手放した者勝ち

そうすることが難しいこの世ではあるけど

井上雄彦「バガボンド 24巻」










山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。

智(ち)に働けば角(かど)が立つ。

情に棹(さお)させば流される。

意地を通せば窮屈だ。

とかくに人の世は住みにくい。

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。

どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画(え)が出来る。


人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。

やはり向う三軒|両隣りにちらちらするただの人である。

ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。

あれば人でなしの国へ行くばかりだ。

人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。


 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、

寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。



夏目漱石「草枕」
posted by フェイサン at 01:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学と生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月13日

灰色の男




   時は金なり



          いつのまにか知っていることわざ






ミヒャエル・エンデの「モモ」を読んだ。

とても優しい物語。

その中に出てくる「灰色の男たち」

現代はこの「灰色の男たち」に

どうやらほとんど支配されてしまっているようだ。

それにしても自分はこの社会にものすごく閉塞感を感じてしまっている。なぜだろう。

この、「モモ」のなかのひとびとと同じようになっている気がする。

という読書感想文でした(短)。






この物語のあらすじは以下のとおり。

モモは小さな女の子で、黒いボサボサの髪、黒い大きな瞳。

数を数えることもわからず、何も知らなかったが、

「人の話を聞く」ことができた。

皆にとってなくてはならない存在になっていた。

「モモ」は親友の「ベッポじいさん」と

「観光ガイドのジジ」と時間におわれることもなく、

こののんびりとした優しい生活がいつまでも続くと思っていた。



そんなところに、灰色の男たちがあわられる。彼らは時間貯蓄銀行の一員だ。

時間の価値をはっきりと認識し、ほかの誰よりも1秒を有効に使おうとする。

どんな人達なのか。説明が難しい。

彼らはとても印象が薄く、話をしてもすぐに忘れてしまう。

ただ、感覚だけ、やたら寒かった事だけを覚えている。

彼らは決して気づかれないように気をつけている。

彼らは得意の"計算"で、次々に"時間"を貯めていった。

一度集められた時間は"灰色の時間"となり、灰色の男に利用される。


たとえば、時間を集められそうな人間を見つけ、用意周到に集めていく。

たとえば、フージー氏は床屋の主人。以下は引用。


彼は名高い理髪師というわけではりませんが、

その界隈では評判のいい床屋です。

貧乏でも、金持ちでもありません。

彼の店は市の中心部にありますが、小さい店で、

若い使用人をひとり置いていました。



けれどそんな評判のいいフージー氏にも、

なにもかもがつまらなく思えるときがあります。

そういうことは、だれにでもあるものです。

「おれは人生をあやまった」 とフージー氏は考えました。

「おれはなにものになれた?たかがけちな床屋じゃないか。

おれだって、もしもちゃんとしたくらしができていたら、

いまとはぜんぜんちがう人間になってたろうになあ!」

でも、このちゃんとしたくらしというのがどういうものかは、

フージー氏にははっきりしていませんでした。

なんとなくりっぱそうな生活、ぜいたくな生活、

たとえば週刊誌にのっているようなしゃれた生活、

そういうものをばくぜんと思いえがいていたにすぎません。

「だがな」と、フージー氏はゆううつな気持ちで考えました。

「そんなくらしをするには、おれの仕事じゃ時間のゆとりがなさすぎる。

ちゃんとしたくらしは、ひまのある人間じゃなきゃできないんだ。

ところがおれときたら、一生のあいだ、

はさみとおしゃべりとせっけんの泡にしばられっぱなしだ。」




そんなフージー氏のことをすぐに察知して、灰色の男はやってくる。

手際がよく、非常に効率的で無駄がなく、彼を説得してしまう。

その後、彼は好きなおしゃべりをやめ、時間を非常に気にするようになった。

一日に、何人もの髪を切った。効率的に、確実に時間を節約していった。

フージー氏が節約することで、灰色の男たちはその時間を利用できるようになる。

フージー氏のように考えない人はいないだろう。



その後、灰色の男たちは次々にその世界の人達から時間を貯蓄させ、

人びとはどんどん時間に追われるようになった。

モモの親友たちも、次々に時間を節約しだす。

しだいに人も変わってゆく。

灰色の男たちは、すべての時間を手に入れようとしだした。








灰色の男について、ゼクンドゥス (登場人物のひとり)
以下は引用。

『彼らはぬすんだ時間だけでできているんだ。』

『彼らの場合は、なにひとつのこらない。』

『人間は、灰色の時間を受け取ったら病気になる。

それも死ぬほどの病気になるのだ。』

『はじめのうちは気のつかないていどだが、

ある日きゅうに、なにもする気がしなくなってしまう。

なにについても関心がもてなくなり、なにをしてもおもしろくない。

だが、この無気力は、そのうちに消えるどころか、すこしずつはげしくなってゆく。

日ごとに、週をかさねるごとに、ひどくなるのだ。

気分はますますゆううつになり、心の中はますますからっぽになり、

自分にたいしても、世の中にたいしても、不満がつのってくる。

そのうちにこういう感情さえなくなって、およそなにも感じなくなってしまう。

なにもかもが灰色で、どうでもよくなり、

世の中はすっかりとおのいてしまって、

じぶんとはなんのかかわりもないと思えてくる。

怒ることもなければ、感激することもなく、

喜ぶことも悲しむこともできなくなり、

笑うことも泣くこともわすれてしまう。』






この物語の作者ミヒャエル・エンデはまるで今の時代をわかっていたかのようだ。

会社に入れば、どこを向いても効率化だし、他のものに気を使う余裕がない。



ほとんどものに対してそのお金(対価)が計算できるようになり、

全ては数値になってしまった。



時間さえも、人そのものにも、

しようと思えば計算されてしまう。



灰色の男の正体は、いろいろなものに当てはまる。

たとえば、「資本主義」だったり「効率化」だったり

「テクノロジー」だったり、「利子率」だったり。

自分には「かわいそうなサラリーマン」にしか見えない。




「モモ」の物語はその後、時間を司るゼクンドゥス(マイスター・ホラ)の力を借りて、

ハッピーエンドなのだが(詳しくは省略)、

今の自分達が住んでいるここはどうなのだろう。

「はっはー時間ピッタ…」

とそこまで厳密にやらなければいけない世の中にしかならないのか。


(Na○iTim○様申し訳ありません。)



*引用「モモ」(岩波書店)
著:ミヒャエル・エンデ
訳:大島かおり
posted by フェイサン at 02:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学と生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月10日

3/12→13に書いた日記

大事な判断や決断をするのに、必要なことはなんだろう。

人生の一大事に選択をする時が必ずある。

そういう時に、大切なことってなんだろうか。

今日は一年に一回来るか来ないかの決断を迫られる時だ、

というのは大げさだろうか。

しかし、今日をいかに過ごすかで、

人生が変わってくるような気がする。

前に、重要な決断をする際には

「すごく迷うこと」が必要だとどこかで書いていたような気がする。

今もその意見(自分の)には賛成だが、

それでも自分は大事な何かを決められないでいる。

何かが足りない。

自分はある種の覚悟なんて、到底できないと思っている。

だから、待つことができない状況まで何もしてこなかった。

下手をしたら、大事な何かを見過ごしてきたのかもしれない。

(日記はここで終了。しかも自分で書いたくせに意味がわからん)。


「Sir Destiny, 俺の夢ってなんだったっけ?」
「何がここまで俺を動かしていたんだっけ?」
「大事な何かを待たせていたような…」

BUMP OF CHIKENEver lasting lie」
posted by フェイサン at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月09日

なにかが変わる「行動分析学」

この世は、


思った通りになるのだそうで。


思った通りにはならないよと


思っている人が、


思った通りにならなかった場合、


思った通りになっているので、


やっぱりそれは、


思った通りになっているのだそうで。


尾田栄一郎 

(OnePiece 三十二巻 ”島の歌声(ラブ・ソング)”表紙より)




最近よんだ本のなかに、「行動分析学マネジメント」

(舞田竜宣、杉山尚子著、日本経済新聞出版社)というものがある。

行動分析学とは、簡単に言えば、

人間を含めた動物行動に法則性を見つけて、それを日々の暮らしの改善

に応用しようとするものだ。

創始者はスキナーという学者らしい。

行動に関する有名な実験の例では、パブロフの条件反射の実験などがある。



行動分析学の観点からみれば、

人間の(常識から考えて)変な行動

「なぜこのひとは自分に対してこんなこと(嫌なこと)をするのか」

「なんでこの人は悪くないのに謝ってばかりいるのか」

「なんで自分はおもったこととは逆の行動をとるのか」

「なんでこの会社(の人間)はこういうことしかしないのか」

「なんでこの人はされるがままで何にもしないのか」

などといったことについて、理解することができるはずだ。
(指示語が多い…。)


そして、その背景にある原因を理解し、変えることによって

人の行動をいい意味で変えることができる。


この本は会社の組織と個人を変えるために書かれた本である。

人の行動原理を体系的に理解させ、

一人一人が活動的になる組織とはどういうものか、

その方法とはなにかを説明している。




実に当たり前な事を「分析」して表現しているだけだ。

しかし、それを続けることで大事なことがわかってくる。

簡単な例では、たとえば、




今日は月曜日。

もうそろそろ起きなくちゃならない。

眠いけどもう時間だ。

布団から出て、一階におりた。

お母さん朝ごはんを作っている。

お父さん新聞を読んでいる。

皆に「おはよう」と挨拶をする。(行動)

皆が「おはよう」と返してくれた。(好子の出現)。

…今日はいつもより少し早い。

今日は日直だから早めにいかなくては。

僕は卵かけご飯とみそ汁を平らげ、はやばやと家を出た。






なんて感じに。

なんてことのないが、とても貴重な時間のひとつだ。

これを行動分析学では、

挨拶をすることについて、好子出現の強化というらしい。


もうひとつの例。


Aさん「最近あの店にいってる?」

Bさん「行ってないよ」

Aさん「なんで?」

Bさん「だって、この前行ったら感じわるい店員がいてさ、

    『あっちのほうが時間もかかんないいんで

     おすすめなんすけど、本当に(×2)こちらでいいすか?』

    なんて聞かれてさ、しつこいんだもの。

    これをつくるのがめんどいっていうのがばればれだし。

    もう行くのも嫌になって。」

Aさん「ふーん。」



…これはその道の言葉で「嫌子出現の弱化」が起きている。

「『これ』を頼む」という行動をすることで

「店員がめんどくさそうに対応する」という自分にとっての嫌子が出現する。

今後は「これ」を頼むことは億劫になるだろう。

さらに、「あの店」に行かなくなることもあるだろう。

行動が弱化されている。






好子とか嫌子といった言葉は行動分析学における専門語だ。

定義などを詳しく紹介するとなにかとまずそうなので控えておく。

でもすぐに載せるだろう。



行動分析学には4つの基本原理がある。
「好子出現の強化」「好子消失の弱化」
「嫌子出現の弱化」「嫌子消失の強化」


人の行動は基本的にこの4つでだいたい決まる。

人は、(どんな小さいことでも)

何か行動を起こして「いい状況」になったらそれを繰り返す。

ならなければ次第に行動しなくなる。

悪い状況があるときに、何か行動を起こして、

それが解消されればそれを繰り返す。

解消されなければだんだん行動しなくなる。

これで結構な場合の行動について、理解できる。




重要な概念のひとつに「学習性の無気力」がある。


人は(人に限らずだが)、何か嫌な状況におかれているとき、

自分で自分の力でその状況を解消することができなかったら、

そのとき実施した行動は次第にされなくなる。

それだけではなく他の状況に対しても学習し、解決していく力を失う。

そんな状況を「学習性の無気力」という。






本のまえがき・序章より

そもそも人は、普段の生活においても、

さまざまな異なる面をもちながら生きています。

…同じ人間が、時と場合でまったく異なる振る舞いをする。

真逆なことをすることをすらある。なぜ、そういうことが起きるのか。

その理由と原理を科学的につかむことができれば、

今度は意識的に自他の行動を望ましい方向へと制御することもできる。

これが行動理論の考え方です。



…満足な仕事をしないことの原因は、

「やる気がない」ことだと考える。

それでは、なぜその部下が「やる気のないやつ」だとわかるのだろう。


…「やる気のなさ」というのは、

「満足な仕事をしない」ことの言い換えにすぎない。

やる気というのは、

その人の行動につけられたレッテルなのであって、

行動の原因ではないのである。
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2009年02月02日

ウソつき問題

昔からある、結構有名かもしれない、論理学の問題を、

通称ウソつき問題をドラえもん風にアレンジ。

別にネタに困っているわけではない。

たぶん簡単。



のび太、しずか、スネ夫、ジャイアンがたむろしていた。



のび太「ドラえもんからこんなの借りてきたよ」

ジャイアン「のび太のくせになまいきだぞ」

てってれってってってて〜
の「人の姿を取りかえっこする道具〜!!(棒みたいなやつ)」

スネ夫「名前くらい覚えとけよ」




の「これはね、二人がこの棒の端と端を持ったらね」

しずか「持ったら?」

の「姿がいれかわっちゃうんだ」

ス・ジャ「なにぃ!?そんなことが未来では可能なのか!?」

ス・ジャ「これが………」

    「22世紀ッ…………!」

しずか「すごーい」




ということで遊んでみた。



スネ夫「じゃあしずちゃん、これから三人がいれかわるから」

ジャイアン「誰が誰だかあててくれよ」

し「は〜い」


…数分後…
の「あいたた」

ス「おまっ。そこはっ。うぎゃ〜」

ジャ「かあちゃ〜ん」
……




そして土管のなかから三人は出てきた。

のび太「ぼくはのび太じゃないよ」

スネ夫「ぼくはスネ夫じゃないよ」

ジャイアン「おれは剛田ではない」


し(…… )



さて、

「のび太」は常にほんとのことを言う。

「スネ夫」は常にうそのことしか言わない。

「ジャイアン」はほんとかうそか、よくわからない。

(ほんとのことも、うそもどちらも言う)





いったい、誰が誰で、どう入れ替わったのだろうか?




答えはそのうち!
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2009年01月12日

働く理由

という本を読んで。


BUMP OF CHICKEN『乗車権』

「強く望むことか適当でも良いか とりあえずは乗車券のかわり」

「あぁちょっと待ってくれ。俺を先にのせてくれ。
なぁどうせ大そうな望みでもないだろう!」

「あぁちょっと待ってくれ。俺もそれに乗せてくれ。
おいそこの空席にカバン置いてんじゃねえ!」




会社に入ってから思う(技術職)。
同じ境遇の人は、みんな思っているのだろうか。

科学技術の発展は、自分の意志か、人の意志か、会社の意志か、

社会の意志ですすめられているのだろうか。

また、科学技術それ自体の意志というものがあって、

なかば自動的に進んでいくようにも思えてしまう。

「自分がやらなくてもいいんじゃないか」と


自分はどんな仕事をしたかったのか。
最近は自分がどこにもいないような、そんな気がしてしまう。
自分のやっていることは、誰にでもできるような、
自分の意志がないような。

自分の「専門」とは、いったい何なのだろうか。



55 なぜ、自分をつまらない人間だと思ってしまうのか

 自分の人生など、ほとんど無意味だし、

わずかしかない業績も取るに足らないものだと感じている。

世の中は、自分がいようがいまいが、順調に進んでいくだろう。

それどころか、自分がいないほうが、

他の人にとってはいいのではないかと思うことがときどきある。

いろいろ考えてみると、

自分のアイデアも夢も希望も何一つ実現しそうにない。

ひとりの人間としての自分に、

人はあまり関心を示してくれないし、

自分のいうことを真剣に聞いてくれないことがよくある。
・・・
デヴィット・リーバーマン(自分のなかにいる「困った人たち」)より




BUMP OF CHICKEN『プレゼント

世界に誰もいない気がした夜があって
自分がいない気分に浸った朝があって



BUMP OF CHICKEN『才悩人応援歌』

ずっと前から解ってた 自分のための世界じゃない
問題ないでしょう 一人くらい寝てたって





新入社員は3年でやめることが多い、というのはよく聞く話だが、

自分はどうだろう。

入社した当時はいろいろなことを学ぼうと、躍起になっていた。

(現在二年目)

会社のために、貢献しようという意欲が確かにあった。

でも本当は、会社のために、ではなく、

社会に貢献できればいいと思っていた。

社会にでて、社会の厳しさを乗り越えようという意識があった。

確かに社会は厳しいということがわかった。

厳しいというよりは、つらい環境だというほうが適切かもしれない。

地域や会社にもよるだろうが、

みんな、わからないようにしてみせているが、

どこか、何かをあきらめているような雰囲気がそこにはあった。



そんなものかと思った。

同期も、辞めたいとか、転職したいとか、会社に未来が無いとか、

そういう話をするのが多い。

(でも今は就職難だから辞めたくはないだろう)

だんだん、やる気がなくなってきた。

このままでは、社会に貢献したいと思う心さえも、なくなりそうだ。



社会全体でこういう話は多いと思うが、

あえて自分もそうだといいたい。



戸田智弘著「続 働く理由 99の至言に学ぶジンセイ論」(ディ

スカバー社)より

人と付き合っていると、

いろんなことを頼んだり頼まれたり、

相談したり相談されたりということが起きてくる。

そういう人間関係からやる気は生まれる。

なるほどと思った。

確かに、何かをしようという気になるのは、

誰か他の人にその気にさせられていることが多い。


よくよく考えてみると、

人は純粋に能動的であることはできない。

なぜならば、能動的とはいっても、

それは何かに動機づけられた結果にすぎないからだ。

ゆえに、私たちは純粋に能動的であるように行動することはできず、

能動的であると同時に受動的であるような行動しかとり得ないのだ。

それは、人間が関係的存在であることによっている。



我々は、結局、

大きな流れに逆らおうとなにかにしがみついてみても、

それよりさらに大きな流れに流されてしまうような気がしてならない。



BUMP OF CHICKEN『乗車権』

「あぁちょっと待ってくれ。やはりここで降ろしてくれ。
なあこんな人生は望んじゃいない。望んでたのはーー」

「あぁ見逃してくれ。わからないまま乗ってたんだ
俺一人降ろす為止まってくれる筈もねえ!」





戸田智弘著「続 働く理由 99の至言に学ぶジンセイ論」(ディ

スカバー社)より

職業や会社を自分で決められない人は、

2つのパターンに分けられる。

ひとつは、決め方がわからない人。(中略)

もうひとつは、決めるのが怖い人だ。

このような人には、「積極的不確実性」と「探索的決定」という

言葉を贈りたい(渡辺三枝子編著『キャリア心理学

ナカニシヤ出版)。

(中略)

いくら合理的な意思決定といっても限界がある。

なぜか?

まずもって世の中のすべての情報を集めることはできない。

また、集めた情報がどこまで客観的かは疑わしい。

それは、どうしても主観的な情報にならざるを得ない。

さらに、情報は刻々と変化していくものである。

職業や会社の情報のみならず、

自分について知ることについても限界がある。

なぜなら、自分は不変的存在ではない。

新たな経験によって自分はどんどん変化していく。

それに、

自分は自分のことを十分に知っているわけではない。

職業や会社についての情報も不完全、

自分についての情報も不完全であるゆえ、

意思決定は常に不完全さを含んでしまう。

それだけではない。

未来になにが待ち構えているかは誰にもわからない。

未来は不確実である。じゃあどうするか?

・・・(中略)


こういったことは、きっと生活するうえで誰にも避けることが

できない問題で、それをみんな認識しているのだろう。


結局、自分は孤立しようとも(なるべく)流されないようにする

ことを選ぶしかない。


自分がやりたいこと、できること、

しなければならないことをするしかない。




それがいいのか悪いのかは、天よりほかに知るものもなく。


(いつも以上にとりとめのない文章だ)
posted by フェイサン at 15:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学と生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月17日

機械をつくる機械について(その5)

論理的に「自己再製機能」を持つ機械が作れることを、フォン・ノイマンは証明した。
情報学と言う観点から見た、生命の定義は次の通りだ。

・自分自身の記述、すなわち自己の青写真を自己の中に持っていること。

・その記述から自分自身を作り出す、万能建設機の機能を持っていること。

・「青写真の青写真」のように、無限のパラドックスに陥らないよう、
 自身の記述には、二重の意味を持たせること。
 すなわち、万能建設機の設計図としての「命令文」と
 ただの記号の並びとしての「情報」。

・万能建設機の設計図をただの情報の並びとしての「情報」と認識するための
 切り替え(スイッチ)を行う監督機能を持っていること。




ノイマンが証明した「自己再製機能」を持つ機械は、工業分野でも重要はあった。

すなわち、工場は自身と同一の工場を作れるのか?という問題に対して。

しかし、それ以外の分野、生物学分野の「生命」の定義としても重要であった。

通常われわれが認識している「生命」は上記のような「自己再生機能」を持つ。

生命とよばれるものは「細胞」という遺伝子の乗り物でできている。

それが自然に(偶然に)できたのか、なんらかの意志からつくられたかなどというのは、

この文章の中では言うつもりもない。

(べつに自分の専門分野ではないから、これらの文章は無責任な発言にも聞こえるかも

しれない。専門ではないからこそ、気をつけて発言をしなければならない)

細胞は分裂し、自身と同一のコピーを作り出す。

細胞内には自己の完全な青写真をはじめ、監督機能、万能建設機の記述がある。

また、生物個体の「死亡」「死んでいる状態」と細胞の「死んでいる状態」は

あきらかに意味が違うように思う。

死んだばかりの動物には、まだ自己再生機能を持つ「生きた細胞」があるだろう。

死んだ直後でも、同じ細胞を持つ生物個体(クローン)は作ることができるのであろう。

「生命を持つモノ」が「もたないモノ」に変わるのは、自己再生機能を失った時であり、

それは我々の一般的な「死亡」のイメージとは異なる。



先の「生命」の定義では、ウイルスはそれ単独では「生命」ではないが、

宿主に寄生し自己増殖できる環境になったとき、生命といえる存在となる。

半生命とよばれたりするような存在だ。






コンウェイは「ライフゲイム」と呼ばれる世界の中に、この自己再生機能をもつものが
存在することを証明した。

「グライダー銃」を利用することで、あるパターンは自己再生機能をもつようになるのだ。

「ライフゲイム」の世界は、今われわれの複雑な世界よりも、もっと単純な法則で縛られた世界である。

ウィキペディア「ライフゲーム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0


そのルールは単純で
1、世界は格子状であり、二次元である。
2、格子の穴ひとつひとつ(セル)に二つの状態(生、死)がある。
3、周りの状態でその中心のセルは誕生するか、
  死亡するか状態を維持するかが決まる(略)。


そんな簡単なルールの世界にはいろいろなパターンが存在する。(略)

その中に、そのパターンのひとつ、「グライダー銃」を利用して、

チューリング機械である万能建設機を設計することができる。

グライダー銃を組み合わせて、新たな別のグライダー銃を作製することができる。

また、
グライダー銃を組み合わせてANDゲート、ORゲート、NOTゲートを設計することができる。

また、
グライダーをbitとみなし、それらとゲートを組み合わせて、「レジスター」を設計できる。

これらから、万能建設機(チューリングマシン)を作り出し、

また、それとは別にスイッチ機能を持つ監督機もつくり出すことができる。


ただし、これらの万能建設機、レジスター、監督機のパターンは相当「大きな」場所を必要とする。

すくなくとも数百万セルほどないと、これらは入らないらしい。


ライフゲイムという名はもともと、

潮の干満のような変化が生物の成長と衰退を模倣しているところからついた。

しかし、実際よくみてみると、その宇宙のなかで「生命」とよばれるものが存在できるのがわかった。

怪我の功名というか、本当の意味での「ライフゲイム」だったのだ。



(参考:「ライフゲイムの宇宙」)
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2008年11月24日

くだらないことをだらだらと

むかし、自分のなかにはさまざまな想いや目的があったはずなのに、

会社に入ってからは、目標を見失ってきている。

目標を失うのに相当な経験をしたのだろう。

自分の技術的な考え、疑問なんてもうとっくに考えられていて、

先輩はすでにその先を行っている。自分は何をしたらよいか。

自分のすることは全て後追いで価値を生み出す仕事になってないのではないか。

それならば価値を生む仕事ができるように、勉強しなければならない。

でも、勉強は仕事ではない。

ならば今「仕事」としてやるべきことは先輩の実験の手伝いなのだろうか?

そう考えると自分の目標がだんだんと希薄なものに感じられてくる。

学ぶことは多いが、でも仕事は同じルーチンワークしかしていない気もする。

それに伴い日々の暮らしも淡々としたものになった。

実際、一日前程度のことですら憶えていられるのが

難しくなったと感じている(単調で同じ暮らしなので)。

自分は老けたなと思う。


日記をノートに書くことにした。

日々の簡単な生活のなかにも、ささいなことについての自分の考えが

わからなくなっているから、

それを書き留めなければと強く思うようになった。

三日坊主になりやすいので、目標は

「とりあえず簡単にでもいいから毎日すこしずつ日記を書く」ことだ。



そんな日記の一部分がこれだ。基本的にいつも同じことを書いている。


11/15(土)
ひさびさに研究室を訪れた。相変わらずの不夜城っぷりだ。

土曜日でも来て実験しているときに、

よく自分のために時間を割いてくれたものだとおもった。

といっても、ただ話をしに行っただけなのだが。

みんな、自分がいなくなって少しさびしくなった、

みたいなことを言ってくれて、うれしい気もしたが、

なんだか自分もさびしくなった。

自分がいた「あの頃」は楽しかったが時間はもう戻らない。

当たり前だが、あの時と同じ条件で同じようなことは

もはや2度とできるわけはないのだ。

もし自分が会社をやめてDr.になろうと研究室に戻っても、

多分幸せには暮らせないのだなあと思ったりする。

かといって今が幸せかと聞かれると、そうでもない、

と答えてしまいそうだ。

ふいに、自分だけが成長せずに、

前に進まずに取り残されたような気分になってしまう。

……
posted by フェイサン at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月28日

王様

確かに何かがいる。

人に「かくあらねばならない」と思いこましている何者かが。

それは人々の間に入り込み、いつのまにか世界を軋ましている。


霧間誠一





昔々あるところに、豪華な服を着て、

町をパレードするのが好きな王様がいた。


ある日、王様の前に「詐欺師の仕立て屋」が現れた。

仕立て屋はこんな感じのことを言った。

「王様にぴったりの服を用意しました。

これは愚か者には見えず、賢いものだけが見える、

素晴らしい色合いの豪華な服です。

ただし、これほどの珍しい服は他になく、とても高いものですから、

お大臣さまともよくご相談なさってから

ご購入することをお勧めいたしますよ。」



もちろん王様には見えなかったが、

見えないとは口が裂けてもいえない為、

見える振りをして家来に相談した。

「この豪華な服を買おうと思うのだが、いかんせん高い。

そなたらの意見を聞きたい。

この服は高い値段で買うに値するものだろうか?」




もちろん家来たちにも見えなかったが、

見えないとは口が裂けてもいえない為、

見える振りをした。

見えないことを微塵も感じさせなかった。

また見えないと叫ぶ者に対しては

この服を口実に失脚させ、自分がのし上がる手段とした。

「とても素晴らしい服です。

これほどまでに王様にあう服はございません。

いますぐに購入することをおすすめします。

また、○○がその服は見えないと陰で申しておりました。

そのような者は王様の側近としてふさわしくありません。

いますぐに解任することを提案いたします。」

(中略)

posted by フェイサン at 19:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学と生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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