あらゆる知識人には、まったく特殊な責任があります。
知識人には、学問をする特権と機会が与えられているのだから、
仲間に対して(あるいは社会に対して)自分の研究成果を、
もっとも簡潔で、もっとも明瞭に、
かつもっとも謙虚なかたちで説明する責任があります。
もっとも悪いこと ──大罪── は、
知識人が自分の仲間に対して、大予言者気取りで立ちまわり、
御神託の哲学で感化しようとすることです。
単純、かつ明瞭に述べられないのであれば、
そのような者は、沈黙して、
言いたいことがわかりやすくなるまで仕事を重ねるべきです。
カール・ポパー
「哲学的な何か、あと科学とか」より2重引用
日本人はなんだかんだいって、
知識の「水準」自体は高いから(読み書きできるという意味で)、
ほとんどの人が、何か自分の得意とする分野では、知識人である。
いまは「インターネット」があることは誰もが知ることとなった。
今はネットで簡単に自分の意見が言える世界になった。
そしてある程度のことはGoogleなどで検索すれば、簡単に情報が手に入る。
その分野についての素人が、簡単に「プロ」並の知識を仕入れることができる。
しかしそれ故に情報が氾濫し、情報リテラシーが問題となった。
簡単に自身で情報を発信できるゆえの
「それらの情報はどれが正しく、どれが疑わしいのか?」
ということが。
テレビや本・wwwでは
科学的な議論・歴史についての議論がされることがあるが、
その議論はほとんどが「文章や図」でなされる。映像もたまにあるが。
しかしそれらはあくまでもただの文章でしかない。
実際起こったことは「自分」が想像するしかないのだと思う。
そしてそれが正しいのかは本当はだれにもわからないことなのではないのか?
「文章」にしたことで、それが理解されたと思ってしまい、
本当は事実と違うのではないのか?
所詮人が発言することには限界がある。
一旦、自分の真に伝えたいことがある表現を使ったせいで、
全く別の方向に解釈されてしまうこともある。
そもそも自分が「これが真だ」と確信をもっていたとしても、違うことが多々ある。
しかも不幸なことに(幸いなのかもしれないが)、死んでも気づかないこともある。
それは変人(哲学者)が昔からよくいっている。
デカルトの「我思う、故に我あり」だ。
(「これならわかる!哲学入門」(著:富増 章成)より引用)
「(デカルトについて)
私達は絶対確実なものを信じながら日々の生活をしている。
太陽は、毎日東から昇り、西に沈む。
駅のホームに立てば、電車がくる。
給料をもらえれば、税金が引かれる。全て確実である。
このように、私達は世の中で確実とされていることを前提に生活している。
だが、私達は、世界の出来事を何を根拠に確信しているのだろうか。
昨日もそうだったから?学校で習ったから?
皆がそう言っているから?新聞に載っているから?
テレビで放送されていたから?
そもそも、自分の記憶だって、それほど信頼できるわけではない。
なぜなら、自分が記憶している内容が正しいとする根拠が
これまた自分の記憶だったりする。
…こうして疑っていくと、ホントとウソの境界線があいまいになってくる。
」
その結論としては「我思う、故に我あり。」だ。
結局これくらいのことしか言えないのではないのか。
自分が「こう思った」ことくらいしか。
上にも書いたが、「今はネットで簡単に自分の意見が言える世界になった。」
ところで、自分自身がなにか発言する際に、
どこまで正しいことを言えるのだろうか?
知ったかぶりだ、とか
あなたの言っていることは実は正しくないとか
言われることは少なからずあることだろう。
あなたはトンデモなひとですね、とか。
一体どこまでを自信を持って「正しい」事実だと言えるのか?
自分が言ったことは
自分が誰かの文章または結果を読んで理解、または解釈したものかもしれない。
だがそれは絶対に「正しい結果」の「正しい解釈」だったのか。
自分で実験して、少なくともこうなった、
のような事しか言えないのではないのか。
実験できる自然科学はまだいい。
考古学や進化論の一部などといった簡単に実験・検証できないものは
どのようなことをもって「正しい」と結論づけるのだろう?
また社会科学では何をもって「正しい」「事実だ」とするのか?
例えば全国の人に聞き込みをし、統計をとるなどは
自分でやるには限界がある。
そもそもその統計の取り方が正しかったのかというようなことが
問題になる場合も多い。
各省庁が出している白書などに載っている報告も、
正しい結果であるように書いてあるが、
単に「言葉のマジック」であるだけなのもあるようだ。
例えば、
現在進行形で「高学歴ワーキングプア」と呼ばれる人が急増しているそうだ。
文部科学省によると日本の大学院博士課程修了者の
"死亡・不詳の者"は"11.4%"だそうだ(2004年)。
2006年の博士終了者約1万6千人のうち、就職者は約9千人(57%)だそうだ。
これでも少ないが、ここにはマジックがあり、実際、
医学薬学以外の高就職率の者を除くと就職率が半分以下だそうだ。
(参考文献:高学歴ワーキングプア 「フリータ生産工場としての大学院」、光文社新書)
とてもアバウトにいうと、(人生の半分を削って博士になるのに)
クラス40人に20人かそれ以下の人しか就職できず、
さらにそのうち4人くらいが行方不明になるらしい。
自分も博士になろうと悩み、そしてあまりに高い壁ゆえに断念した。
もともと博士は栄誉ある地位だったはずだ。これでは浮かばれない。
話をもどすが、いくら信頼性のある情報だ、といっても、
言葉・その範囲のあいまいさにより
ちょっとしたところの解釈でも人によってだいぶ違う。
自分の言いたいことを注目してもらいたいために、
(あるいは注目されたくないがために)
多少の誇大表現を使うこと
(あいまいな表現を使うこと)
はよくあると思うが、
誤解されることもよくあると思う。
誤解されるということは正しい事実が伝わっていないということ。
「誤解した方が悪い」とはよくいうけれど、
本当に「誤解した方が悪い」のか?そこは難しいところだ。
自分が何かを言う時は、
正しい事を言おうとしても、まずそれが本当に正しいのかわからず、
多少言葉足らずに言ったとして、変に解釈されることもある。
むしろ言っても注目されず、伝わりすらしないこともあり。
そこらへんが「世の中で意見を言うのはとても難しいこと」で
まるで「余計なことはいうな」とでもいわれているかのようだ。
それでも自分はこれからも言いつづけるのだろう(このブログで)。
自分でも正しいのかよくわからないことを。
脈絡もなく適当なことを。
あたかも「正しい」みたいな感じで。
終わり。
(今回は疑問しかいわなかった。結論もよくわからないし。)
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