2009年01月12日

働く理由

という本を読んで。


BUMP OF CHICKEN『乗車権』

「強く望むことか適当でも良いか とりあえずは乗車券のかわり」

「あぁちょっと待ってくれ。俺を先にのせてくれ。
なぁどうせ大そうな望みでもないだろう!」

「あぁちょっと待ってくれ。俺もそれに乗せてくれ。
おいそこの空席にカバン置いてんじゃねえ!」




会社に入ってから思う(技術職)。
同じ境遇の人は、みんな思っているのだろうか。

科学技術の発展は、自分の意志か、人の意志か、会社の意志か、

社会の意志ですすめられているのだろうか。

また、科学技術それ自体の意志というものがあって、

なかば自動的に進んでいくようにも思えてしまう。

「自分がやらなくてもいいんじゃないか」と


自分はどんな仕事をしたかったのか。
最近は自分がどこにもいないような、そんな気がしてしまう。
自分のやっていることは、誰にでもできるような、
自分の意志がないような。

自分の「専門」とは、いったい何なのだろうか。



55 なぜ、自分をつまらない人間だと思ってしまうのか

 自分の人生など、ほとんど無意味だし、

わずかしかない業績も取るに足らないものだと感じている。

世の中は、自分がいようがいまいが、順調に進んでいくだろう。

それどころか、自分がいないほうが、

他の人にとってはいいのではないかと思うことがときどきある。

いろいろ考えてみると、

自分のアイデアも夢も希望も何一つ実現しそうにない。

ひとりの人間としての自分に、

人はあまり関心を示してくれないし、

自分のいうことを真剣に聞いてくれないことがよくある。
・・・
デヴィット・リーバーマン(自分のなかにいる「困った人たち」)より




BUMP OF CHICKEN『プレゼント

世界に誰もいない気がした夜があって
自分がいない気分に浸った朝があって



BUMP OF CHICKEN『才悩人応援歌』

ずっと前から解ってた 自分のための世界じゃない
問題ないでしょう 一人くらい寝てたって





新入社員は3年でやめることが多い、というのはよく聞く話だが、

自分はどうだろう。

入社した当時はいろいろなことを学ぼうと、躍起になっていた。

(現在二年目)

会社のために、貢献しようという意欲が確かにあった。

でも本当は、会社のために、ではなく、

社会に貢献できればいいと思っていた。

社会にでて、社会の厳しさを乗り越えようという意識があった。

確かに社会は厳しいということがわかった。

厳しいというよりは、つらい環境だというほうが適切かもしれない。

地域や会社にもよるだろうが、

みんな、わからないようにしてみせているが、

どこか、何かをあきらめているような雰囲気がそこにはあった。



そんなものかと思った。

同期も、辞めたいとか、転職したいとか、会社に未来が無いとか、

そういう話をするのが多い。

(でも今は就職難だから辞めたくはないだろう)

だんだん、やる気がなくなってきた。

このままでは、社会に貢献したいと思う心さえも、なくなりそうだ。



社会全体でこういう話は多いと思うが、

あえて自分もそうだといいたい。



戸田智弘著「続 働く理由 99の至言に学ぶジンセイ論」(ディ

スカバー社)より

人と付き合っていると、

いろんなことを頼んだり頼まれたり、

相談したり相談されたりということが起きてくる。

そういう人間関係からやる気は生まれる。

なるほどと思った。

確かに、何かをしようという気になるのは、

誰か他の人にその気にさせられていることが多い。


よくよく考えてみると、

人は純粋に能動的であることはできない。

なぜならば、能動的とはいっても、

それは何かに動機づけられた結果にすぎないからだ。

ゆえに、私たちは純粋に能動的であるように行動することはできず、

能動的であると同時に受動的であるような行動しかとり得ないのだ。

それは、人間が関係的存在であることによっている。



我々は、結局、

大きな流れに逆らおうとなにかにしがみついてみても、

それよりさらに大きな流れに流されてしまうような気がしてならない。



BUMP OF CHICKEN『乗車権』

「あぁちょっと待ってくれ。やはりここで降ろしてくれ。
なあこんな人生は望んじゃいない。望んでたのはーー」

「あぁ見逃してくれ。わからないまま乗ってたんだ
俺一人降ろす為止まってくれる筈もねえ!」





戸田智弘著「続 働く理由 99の至言に学ぶジンセイ論」(ディ

スカバー社)より

職業や会社を自分で決められない人は、

2つのパターンに分けられる。

ひとつは、決め方がわからない人。(中略)

もうひとつは、決めるのが怖い人だ。

このような人には、「積極的不確実性」と「探索的決定」という

言葉を贈りたい(渡辺三枝子編著『キャリア心理学

ナカニシヤ出版)。

(中略)

いくら合理的な意思決定といっても限界がある。

なぜか?

まずもって世の中のすべての情報を集めることはできない。

また、集めた情報がどこまで客観的かは疑わしい。

それは、どうしても主観的な情報にならざるを得ない。

さらに、情報は刻々と変化していくものである。

職業や会社の情報のみならず、

自分について知ることについても限界がある。

なぜなら、自分は不変的存在ではない。

新たな経験によって自分はどんどん変化していく。

それに、

自分は自分のことを十分に知っているわけではない。

職業や会社についての情報も不完全、

自分についての情報も不完全であるゆえ、

意思決定は常に不完全さを含んでしまう。

それだけではない。

未来になにが待ち構えているかは誰にもわからない。

未来は不確実である。じゃあどうするか?

・・・(中略)


こういったことは、きっと生活するうえで誰にも避けることが

できない問題で、それをみんな認識しているのだろう。


結局、自分は孤立しようとも(なるべく)流されないようにする

ことを選ぶしかない。


自分がやりたいこと、できること、

しなければならないことをするしかない。




それがいいのか悪いのかは、天よりほかに知るものもなく。


(いつも以上にとりとめのない文章だ)
posted by フェイサン at 15:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学と生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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